記憶のある世界へ

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記憶のある少年

 

小学校3年生になったとき、突然の転機がきた。

転校。少年野球チーム入団。

二つの強烈な恐怖が何もわからなかった子供を襲った。

 

英語教室の恐怖体験の後に追い打ちをかける転校。

父の地元へ戻った。

突然ここからはどうしてこんなにはっきり覚えているのだろうか。

広い校庭と古い木造の校舎。

3年3組

眼鏡をかけた男の先生。名前まで答えることができる。

成績は完璧なる普通。

通知表は5段階評価で全学期すべて美しく「3」が並んだ。

なんの特徴も光るものもない目立たない子だったのだろう。

 

習い事は習字とそろばん、そして地元の少年野球チームに入れられた。

どうして野球チームに入ったのか?

入りたいか?と聞かれて入りたくもないのに「Yes」と答えたのか。

小学3年生の新入りの背番号は55。

毎週土日と祝日が確実に練習だった。

近隣実業団の野球場が練習場でその会社の守衛の門の目の前の

猫の額ほどの公園が練習前の子供たちの集合場所になっていた。

 

小学校6年生の怖い別世界のお兄ちゃんから、小学校3年生の新入りまで

60人以上の子供たちがざわついて球場移動を待っている。

3年生ではほとんど同級生はいなかった。確か違う学校の子が4人。話せる人もいなかった。

練習の30分前までに集合。

きっちり時間は守った。遅れたことは一度もない。

怖かったからだ。

そして本当に毎週のこの場所に集合して待つ永遠のような長い時間が

何もできない小学生の子供には強烈な恐怖だった。

 

野球が楽しいと思ったことは、、、一度もない。

正直にハッキリきっぱりと一度もない。義務のようにやっていた。

いつでもやめたかった。やめられないと思った。

親の期待を裏切らないためか。きっとそうだったと思う。

夏の暑いときに、母が作ってくれた水筒に入った麦茶と

家に帰ってから飲める氷入りのレモネードがとてつもなく美味しかった。

麦茶は辛い思い出で、レモネードは安心の思い出だ。

 

4年生になった。

突然に事件が起こった。成績が急伸した。どうしてしまったのか?

僕は何もしていない。本当に何もしていない。さっぱりわからない。

きっと先生が贔屓をしてくれたんだ。

突然に、全学期、通知表にみるみる「5」が並んだ。

女性の先生だ。もちろん名前もはっきり覚えている。ホクロの位置まで覚えている。

先生が最初の恩人だ。

何か僕の未来の光を見つけてくれたに違いない。

 

野球も頭角を現した。

早生まれの4年生が5年生のチームに入ってレギュラーになっていた。

この頃の社会では野球が最高に人気のあるスポーツで

地方の少年チームでさえ100人を越える大所帯になっていた。

能力はかなり優秀だったはず。

「この子は将来、絶対プロになる」と囁く大人たちの声を

何度も聞いたことがある。

上手いは上手いけれどミスをしない三振しない手堅いプレーの選手だった。

それでも野球を楽しいと思ったことは一度もない。

嫌で嫌で仕方がなかった。

 

5年生、6年生

嫌なことはますます順調だった。

キャプテンとなり、チームを束ね、きっと傍から見ていた人たちには

まさか毎週の練習、そして試合がそんなに嫌だったなんて

微塵も思わせなかったに違いない。

プレーはセンスでやった。生きていた。エラーはしない。三振はしない。

ボールは縫い目が見えるように止まって見えたし、守備では投げるべき場所が目で見なくてもそこが光って見えた。

ピッチャー、キャッチャー、内野、外野、すべてのポジションをこなした。

器用にこなすことは簡単だった。家で素振りなどしたことがない。それでも群を抜いて上手かった。

以後を含めて野球をしている何年もの間で

親が応援に来たことは何の大会だったか一度しかなかった。

 

勉強は、特に歴史が好きだった。歴史は繰り返す。

4500年前から人間の本性がまるで成長していないことを見抜いていた。

なので次はどんなことが起こるのか、歴史に倣って、歴史上の英雄に自分を重ねて

考えることが好きだった。

ある日は戦国時代に、ある日は古代中国に、ある日はフランス革命

意識を飛ばして主人公になり切った。

なのに科学が最高に楽しく研究者こそが世界で最も崇高で素晴らしい職業だという父の呪縛はさらに強まり

知らず知らずのうちに脳も心もすべてを縛り上げて行った。

 

学校は小学校、中学校、高校、すべて徒歩7分圏内だった。

平日、休日、毎日、毎日。毎日、毎日。家と学校の往復だけだった。

社会とのかかわりが何もなかった。

大人とのかかわりもなかった。

正直、この世の職業は野球選手と科学者しか知らなかったといっても言い過ぎではないほどに

他のことを検討したことは一度もなく、

家族で話題になることもなく、やっぱりこの世のことを何も知らなかった。

そして

これが大学生まで続くとは。

この人生は悪夢だった。

 

成績はさらに良かった。家で勉強したことがない。塾に行ったこともない。

授業中の先生の話はどうでもよい冗談まで完全に頭に入っていた。

勉強は授業中に目から耳からですべてを終えた。

文系科目、理系科目、オールラウンドで得点できた。

大学受験の勉強は高校三年生の夏、市の図書館でずっと遊んでいたので

9月の半ばを過ぎてから始めたことはハッキリしていて

なんと赤本すら一度も目を通さずに(一応志望校の赤本だけは購入した)

入試の本番を迎えて、

国立大学、願書出願は志望校一校のみ。現役一発で合格した。

 

伊達にできただけに、

自分の人生の進む方向を考えたことすらなかった。悪夢だ。

理系、バイオテクノロジー、生命の研究、ただただ父親の呪縛の通りに

自分の違和感に気づいてからおかしくなるまで順調極まりなくすべてが進んだ。

 

僕は理系だ。思い込んだ。

論理的思考こそが優秀。感性は研究の閃きのみで輝き、この世はそれを証明することに価値がある。

科学で証明できないほどの自然の摂理は神々しく美しく

それを解き明かすのが科学。

科学で証明できないものを根拠とする人など知性の低い怪しい輩。

論理と測れるものを信じる。

これが人生を縛っていく。

大学4年生になって、それは視野の狭さからの間違いではないのか、、、と

薄々気づき始めるまで。

認めたくない気持ち、今までの自分のすべてが否定されるような不安の奥に

職業も科学者しかないのはおかしい、他の仕事も必要なんじゃないのかと

思えば思うほど「今さら」感が溢れてくるのに困惑しながら

社会に対する無知な青年の帰れない時間が過ぎた。

 

本当に科学が好きで好きでのめり込んでしまうような人間なら

きっとこんな青年時代は大正解で幸せでたまらなかったのだろうけれど

特別に科学だけにのめり込めない人としては、科学がどの科目よりも好きで得意で最高に興味あるふりをし続ける時間なんて

なんとも不思議な幸せでしかなかった。そんな必要はあったのか。

 

心の奥から自信はあった。

けれど心の奥に情けない弱さがあり続けた。

 

野球は利き腕をケガをしたことで肝心のボールを投げれなくなったことで

区切りがついた。

試験の点だけは常に取れ続けていたこと、大学にも順調に進んだこと、

とにかく成績優秀だったことで

こちらはズルズルと言い訳もできず傷深く進路を狭めて変えることができなくなった。

さらにそこからあろうことか大学院に転入し

どっぷり基礎医学の研究者の道に入り込んでいく。

 

大学でも大変人気の素晴らしい先生に師事した。

当時、最先端の遺伝子工学や、内分泌系の細胞内の情報伝達について

研究の細部に、より最先端の細部に入り込んでいった。

研究者であるならば間違いなく恵まれた環境だった。毎日、毎日、研究室に通った。

科学論文も出させてもらった。

そんな毎日の中で期待もしていただいた。

けれど、また毎日、毎日、研究室の人々と同じ分野の世界中の競争相手だけが

世界のすべてになっていった。

 

そして時が来た。

この先、大学に残り、博士→アメリカ研究留学→助手→講師→助教授→教授の既定路線を歩まなければならないのか。

それ以外にはない。もうそれしか残っていない。

コネクションも含めて幸せに見えるように出来上がっている栄光のルートのギリギリのタイミングで

教授室のドアをノックした。

その日、畏れ多い大教授にアポイントメントを入れ時間をいただいていた。

勇気。

本当に勇気。緊張。

教授の「なんや?どうした?」という快活な声が聞こえた。瞬間、身体が震えた。

博士課程に進むことを固辞した。

就職する。社会に出る。道を変えたい旨を伝えた。

研究室史上前例のない親不孝な学生の申し出に空気が凍った。

どうしてもピンポイントこのタイミングしかないところで

教授の圧倒的な威光に耐えながら必死に告げた。

この瞬間、僕は父の期待をすべて裏切った。

どうしてこんなことに

どうしてこんなことになってしまったのか。。

 

Ver.0

父方母方、それなりの地方の名士の本家に

両家の長男長女の初めての子ども、そう、初孫として生まれた。

きっと一身に注目を集めて大切に育てられたのだと思う。

けれど何も覚えていない。

 

必死で記憶を手繰り寄せる。

どうしてこんなことになってしまったのか。

 

おぼろげに、いくつかだけ、ほんのいくつかだけのシーンしか思い出せない。

何年も生きたはずの時間。

なのに、

一瞬の時の切れ端、前後のわからない瞬間の断片しか存在しない。

思い出せない。ビデオが残っていればいいのに。何があったのかがわからない。

 

生まれた。

広島の中心街、天満屋の真ん前に家があった。

一階は靴屋。アーケード街にはいつも大勢の人が溢れ賑わう人混みには

古き日本の活気があった。

僕はいない。人も記憶にない。ただ景色だけが、色褪せてセピア色に蘇る。

僕はいくつだったのだろう?

 

そして僕の写真は一枚だけ。

父方の一族、屋号もある家の母屋の全開になった窓の日の当たる縁側で、

一人おもちゃのパトカーで遊ぶ写真。

僕の写真はこれしかないのか。でもこれしか見たことがない。

若き父母の写真は見たことがある。けれど僕の写真は見たことがない。

 

記憶を遡って手繰り寄せる。一生懸命手繰り寄せる。

何も見えない。人ってみんなこんなものなのか。

 

記憶は幼稚園。部屋にストーブ。たくさん子。でも何をしているのかわからない。

確かに幼稚園。そこに僕はいて僕の周りを見ているけれど

人の気配だけを思い出せる。人は影。

そして小学校の校庭。夕焼け、さかのぼりの練習。できた。

プール。誰かに沈められた。水中。苦しい。誰がやったかわからない。

ニッタさんの誕生日、なに?でも確かに誕生会に誘われた。ニッタさん。誰?

行ったかどうかはわからない。気持ちもわからない。

道路工事をしているところを何度も横切って登下校した。

何年生なんだろう。夏。暑い。増えてきたセイタカアワダチソウ

喘息の話を聞いた気がする。きっと2年生。

 

家の裏手の浄水場に忍び込んでは遊んだ。道端に枇杷の木があった。間違いない。

蝉取り。

はげ山があって近所のお兄ちゃんが水晶がとれると言ったから

羨ましくて日が暮れるまでずっと掘っていた。でもきっとそれは嘘だった。

 

野球が上手かった。

はじめてキャッチボールをした日、きっと一年生。

はじめてのボールもグラブで上手にキャッチした。距離感が確実に計れる。

動体視力も大丈夫。ボールがはっきり見える。グラブのそばから。

そして、ある日、ボールの代わりに、何も見えないところから

何かが飛んできた。

本当に何も見えなかった。瞬間、何が起こったのかはわからなかった。

 

眉間に突き刺さった。

それは長いものだとわかった。

血が垂れ落ちるのがわかった。たら~っ。感覚が今でもわかる。

痛みはわからない。確かに垂れていた。

先の尖った竹だった。

誰が投げたのかはわからない。見えない。人が騒いでいる。記憶がない。

少しずれていたら片目の光を失っていた。よかったと何年もあとになって思った。

でもその時の子供の僕にはなにもわからなかった。

きっとこの瞬、第三の光を失った。

 

母は、女学院の英文科を出たことが自慢の人だった。

「しもうた。」「どうするん?」「どうすればええん?」「ああ情けない。」

これがことのほか多い口癖の人だった。

オロオロする姿ばかりが印象的な典型的なお嬢様育ちの人だった。

母の印象。そんな印象しかない。その口癖を何度もあらゆるシーンで聞いて育った。

ハッキリ覚えている母の記憶はわずかなものだ。

バスを目の前で逃したバス停で「ああ~しもうた。情けない。」と言ったあの時の顔。

テストの度に「どうじゃった?」と聞く定型の会話。

そして何より、

ある日、何も言わずに

確か間違いなく当時の新しい団地の戸建てのお宅に僕を放り込んで

そこで生涯にわたって

以降、僕のすべての可能性の芽を摘むことになる恐怖の体験をさせてくれたあのできごと。

きっととても愛されて育ったはずなのに

そんな具体的な記憶がまったくない。

 

父は科学の研究者だった。

毎日、自分の研究ばかりしていた。新しい発見と論文の話ばかりを嬉々として話した。

お酒が好きだった。毎晩のように晩酌をしていた。食卓には必ずビールがあった。

飲むとどうしようもなく大船に乗って饒舌になる人だった。

僕はお酒は嫌いだった。

飲む人を見ると惨めに見える。飲まなければ上機嫌でいられない。飲んだら口からミスをする。

彼はテニスが大好きで、休日は自分のテニスばかり。

何度か試合を応援しに行ったことはあるけれど、僕の野球の試合を応援に来たことは

一度としてなかった。いや、一度だけあった。キャプテンの僕の試合を。不思議だった。

家族を旅行に連れて行ってくれたことは、、、四国の松山と徳島に

たった一度だけ。

この世の僕の世界は

山口県の住んでいた街と広島市内がすべてだった。本当にすべてだった。

 

僕はどうしてこんなことになってしまったのか。

あやしうこそものぐるほしけれ

ぼくは突然考えた。

生きているならこれから向かう世界のために何をすればいいのか。

 

もうこの6年間、働くのもやめた。

毎日、毎日、毎日、毎日、時間があって時間はあり余っている。

なんのために生きているのか。飽きてしまった。

そのくらいに虚しい。

僕の役割もふたつ終えたような気がする。

僕の中での僕1.0、僕2.0は終わった。僕は3.0に向かうのか。

 

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて

心にうつりゆくよしなし事を、、、そんな気分の何年もを

これから何年も過ごしていくのかって

そんなとき、突然、声が「聞こえた!」

えっ?誰?なに?なんて言った?

 

僕の父さんは場所から光が見えるって言ってた。

父さんは科学の研究者だ。

僕は父さんに育てられた。科学が最高に楽しい世界で、科学者こそが一番偉かったはずなんだ。

誰も知らなかったこの世の原理を、誰よりも早く見つけることこそ

この世界で最も崇高なこと。

そしてその「未踏への挑戦」に生きることが最高の人生だって教えてくれたんだ。

 

それなのに

光が見えるなんて

なんて非科学的な。

僕はもわーっと不思議な何かに包まれて戸惑ったのを覚えている。

子供の頃の話だ。

 

Ver1.0 少年から理系人間としての社会人を生きてから

Ver2.0 独立経営体となって子育てにすべての知識を継ぎ込んだ人生を生きて

そして

ただただやることもなく過ごしている今、

後悔したり、こんなものかと思ったり

やっぱり早く死にたいと思ったり、でもまだ生かされることに悩んだり

幸せだったり、不幸だったり

健康診断には何年も行ったことがないけれど、不調になったこともなく

病院に行くこともなく健康そのもの、そして考えられないくらいに若い。

 

毎日、毎日がなんとなくなんとなく過ぎていく。

毎日、毎日、昼に起きて、食事して、誰かとお話しして、散歩して、

犬と遊んで、

ときどきテニスして、ときどき本を読んで、ときどき出かけて

そして毎日、毎日が、ただ過ぎていく毎日となる。

 

曜日もわからず、休日もわからず、

でも決してもうこのままではあり得ないほどの世界の変化だけはわかる。

世界は急激に変わって、いよいよもうすぐ人工知能と一緒に生きる世界がくる。

その時の人の役割とか、存在する意味とか、

今のままでは生きる目的を見失うかも知れないたくさんの人々の精神が破綻しない方法とかを

みんなより少し先に実感して探すためにこんな生活させてもらっているのかなと

少しマトモらしいことも思いながら。

 

悲しいけれど

理系としての頭はひと時も考えることをやめさせてくれない。

疲れる。異常に毎日疲れる。

生きていることに窮屈さと苦しさと無意味感から来る無力さを

毎日、毎日、毎日、毎日、とにかく積み重ね続ける毎日。

ただ何も考えずに楽しく過ごせればいいのに。。

違うね。

ただただ

すべてのことを楽しく考えられるようなプログラムになっていればいいのにね。

この出来の悪いアホな頭は

こんな無力感いっぱいのつまらない人生を作ってくれる。

このつまらない人生に「つまらん」「つまらん」と言い続けていた今、この瞬間、

 

「コジロウちゃん書いてみなさい!」って

えっ?

「きみが知ってきたことを書いてみなさい!」

はっ?

「なに悩んでるの? きみずっと前から知ってるでしょ。

 はじめて気づくように思い出すこと書いてみなさいよ!」

なにを?

 

誰?なに?

つれづれなるままに。

心にうつりゆくよしなし事を。

書きつくれば、そこはかとなく。

まあそれでいいか。

しょうもないことを書こう!

ラフに書こう!

楽しそうに書こう!

そう思います。

あやしうこそものぐるほしく。