どうしてこんなことに

どうしてこんなことになってしまったのか。。

 

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父方母方、それなりの地方の名士の本家に

両家の長男長女の初めての子ども、そう、初孫として生まれた。

きっと一身に注目を集めて大切に育てられたのだと思う。

けれど何も覚えていない。

 

必死で記憶を手繰り寄せる。

どうしてこんなことになってしまったのか。

 

おぼろげに、いくつかだけ、ほんのいくつかだけのシーンしか思い出せない。

何年も生きたはずの時間。

なのに、

一瞬の時の切れ端、前後のわからない瞬間の断片しか存在しない。

思い出せない。ビデオが残っていればいいのに。何があったのかがわからない。

 

生まれた。

広島の中心街、天満屋の真ん前に家があった。

一階は靴屋。アーケード街にはいつも大勢の人が溢れ賑わう人混みには

古き日本の活気があった。

僕はいない。人も記憶にない。ただ景色だけが、色褪せてセピア色に蘇る。

僕はいくつだったのだろう?

 

そして僕の写真は一枚だけ。

父方の一族、屋号もある家の母屋の全開になった窓の日の当たる縁側で、

一人おもちゃのパトカーで遊ぶ写真。

僕の写真はこれしかないのか。でもこれしか見たことがない。

若き父母の写真は見たことがある。けれど僕の写真は見たことがない。

 

記憶を遡って手繰り寄せる。一生懸命手繰り寄せる。

何も見えない。人ってみんなこんなものなのか。

 

記憶は幼稚園。部屋にストーブ。たくさん子。でも何をしているのかわからない。

確かに幼稚園。そこに僕はいて僕の周りを見ているけれど

人の気配だけを思い出せる。人は影。

そして小学校の校庭。夕焼け、さかのぼりの練習。できた。

プール。誰かに沈められた。水中。苦しい。誰がやったかわからない。

ニッタさんの誕生日、なに?でも確かに誕生会に誘われた。ニッタさん。誰?

行ったかどうかはわからない。気持ちもわからない。

道路工事をしているところを何度も横切って登下校した。

何年生なんだろう。夏。暑い。増えてきたセイタカアワダチソウ

喘息の話を聞いた気がする。きっと2年生。

 

家の裏手の浄水場に忍び込んでは遊んだ。道端に枇杷の木があった。間違いない。

蝉取り。

はげ山があって近所のお兄ちゃんが水晶がとれると言ったから

羨ましくて日が暮れるまでずっと掘っていた。でもきっとそれは嘘だった。

 

野球が上手かった。

はじめてキャッチボールをした日、きっと一年生。

はじめてのボールもグラブで上手にキャッチした。距離感が確実に計れる。

動体視力も大丈夫。ボールがはっきり見える。グラブのそばから。

そして、ある日、ボールの代わりに、何も見えないところから

何かが飛んできた。

本当に何も見えなかった。瞬間、何が起こったのかはわからなかった。

 

眉間に突き刺さった。

それは長いものだとわかった。

血が垂れ落ちるのがわかった。たら~っ。感覚が今でもわかる。

痛みはわからない。確かに垂れていた。

先の尖った竹だった。

誰が投げたのかはわからない。見えない。人が騒いでいる。記憶がない。

少しずれていたら片目の光を失っていた。よかったと何年もあとになって思った。

でもその時の子供の僕にはなにもわからなかった。

きっとこの瞬、第三の光を失った。

 

母は、女学院の英文科を出たことが自慢の人だった。

「しもうた。」「どうするん?」「どうすればええん?」「ああ情けない。」

これがことのほか多い口癖の人だった。

オロオロする姿ばかりが印象的な典型的なお嬢様育ちの人だった。

母の印象。そんな印象しかない。その口癖を何度もあらゆるシーンで聞いて育った。

ハッキリ覚えている母の記憶はわずかなものだ。

バスを目の前で逃したバス停で「ああ~しもうた。情けない。」と言ったあの時の顔。

テストの度に「どうじゃった?」と聞く定型の会話。

そして何より、

ある日、何も言わずに

確か間違いなく当時の新しい団地の戸建てのお宅に僕を放り込んで

そこで生涯にわたって

以降、僕のすべての可能性の芽を摘むことになる恐怖の体験をさせてくれたあのできごと。

きっととても愛されて育ったはずなのに

そんな具体的な記憶がまったくない。

 

父は科学の研究者だった。

毎日、自分の研究ばかりしていた。新しい発見と論文の話ばかりを嬉々として話した。

お酒が好きだった。毎晩のように晩酌をしていた。食卓には必ずビールがあった。

飲むとどうしようもなく大船に乗って饒舌になる人だった。

僕はお酒は嫌いだった。

飲む人を見ると惨めに見える。飲まなければ上機嫌でいられない。飲んだら口からミスをする。

彼はテニスが大好きで、休日は自分のテニスばかり。

何度か試合を応援しに行ったことはあるけれど、僕の野球の試合を応援に来たことは

一度としてなかった。いや、一度だけあった。キャプテンの僕の試合を。不思議だった。

家族を旅行に連れて行ってくれたことは、、、四国の松山と徳島に

たった一度だけ。

この世の僕の世界は

山口県の住んでいた街と広島市内がすべてだった。本当にすべてだった。

 

僕はどうしてこんなことになってしまったのか。